スタッフ通信

今年も一人ずつデータで確認

梅嶋です。

今週は、論理的であることの重要性を改めて気づかされました。

第一に、鈴鹿高校で論理コミュニケーションを学ぶ新一年生のデータだ。今週、全員分の回答、論理コミュニケーション力測定テストcollaboyouの計測結果、そして電子ペンアノトを用いて構築した論理コミュニケーションの時系列分析機(通称、論理コミュニケーション版CTスキャン)の測定結果を一つずつ精査しました。夕方から初めて終わったら22時でした。

生徒の論理コミュニケーション力は、かなり成長してきている。これまでの我々の研究では、論理コミュニケーション力は受験偏差値に相関があり、さらに就職で求められる力と相関が高いことが判明している。しかし、今回のデータは、これまでの検証結果を覆しそうだ。論理コミュニケーションは偏差値などと関係なく育成可能、加えてこのような能力は全員保有しているから就職試験の合否の基準にならない。

第二に、論理性の有無に年齢は無いということだ。生徒と先生のコミュニケーションを対象に面白い研究を始めた高校生。結論を論理的に導き出したいから1時間半の議論があっという間に過ぎてしまった。そして、一度も論点がずれることがない。

一方、大人の議論はどうか?正直、高校生の議論に論理性の観点で負けている議論が多かった。論点が飛ぶ、発散する。言いたいことが次々に言われているだけ。深まらない議論。議論自体が目的化しているからなのか。。。

論理的コミュニケーション。あなたもいかがですか?下記教科書でこっそり一人でも始められます。

 

教科書「論理コミュニケーション」

 

 

 

知事と鈴鹿高校の生徒の授業に参加

梅嶋です。

久しぶりに更新です。

7月最終週の先週(今は8月1日。)は、面白い1週間でした。

インドネシアからアドバイザーを務める潮力発電の大学ベンチャーとそれを支えるインドネシアのバンドン工科大学のインキュベーターの親友を日本に呼びいろいろな人と今後の設計を議論。そして、7月31日には、鈴鹿高校で全国最年少知事でもある三重県知事と鈴鹿高校の生徒の論理コミュニケーション授業にテレビ会議で参加した。

すごい時代。インターネット万歳だ。

鈴鹿高校の生徒は、教育にテレビ会議は使えないなどいう学生は誰もいなくなっている。普通にこっち向いて、「いや、こういうことを言いたかったのだ」と言っている。こんな素晴らしい機器の活用に反発するのはいったい誰なのか?と思ってしまう。

インドネシアのメンバーもそう。日本の企業を訪問したが、テレビ会議で何度も議論したうえでの”再会”は、議論をすぐに建設的な設計の議論にさせた。そのおかげで、ちょっとの空き時間に秋葉原に行けた。そう、Akihabara。すでにインドネシアでも有名。自由な雰囲気が魅力。

思えば、ちょうど一年前鈴鹿で初めて論理コミュニケーションを教える授業を開始した、鈴鹿高校を挑戦の場に選んだ仁藤先生と採用したテーマが、「どうして日本では起業や挑戦が少ない?」そして、本日のテーマは、「どうして三重では教育を自分達で設計できない?」。昨年よりもより、具体的な議論となった。

昨年と今年の最大の違いは、知事が来ても、論理的に議論できたということ。生徒は、自分たちの設計で教育を創れない際に何が障害となっているのかを論理的に説明していた。議論可能な形での情報発信だ。だから、次に何の設計が必要かを検討する建設的な議論を行えた。論理コミュニケーションは、批判にさらされつつも、確実に何かを作り出している。

インドネシアの親友たちとの議論、そして本日の鈴鹿の生徒たちとの議論でも焦点となったのが、新しい調整に対する、(周囲の)批判。

新しい設計、新しい挑戦に対して「批判」で返すのは辞めようということ。それだと、挑戦することは、楽しみではなく戦いとなってしまう。

挑戦をしかめっ面から笑顔に変えないと楽しくない。

写真は、忙しい日程を縫い、秋葉原に行き、日本でも自由な雰囲気があると知って喜ぶインドネシアの親友

 

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ICTで全国の学校の教室を自由な組み合わせでつなぐ

梅嶋です。

急きょ、三重に来ました。これから鈴鹿市の教育長さんを表敬します。

昨日、現在の僕の大学での研究の中心となっているSFCプラットフォームデザインラボで自治体や企業の方をお招きして研究会を開催しました。

昨年は、論理コミュニケーションの正式授業を開始しますという宣言をしました。当時は懐疑的な声をでしたが、その予測を裏切ることができ、今回は祝福を頂きました。

テーマは、「ICTを用いて全国の学校の教室を自由な組み合わせでつなぐ」である。僕は鈴鹿市での取り組みを紹介、その他つくば市での取り組みの紹介があった。つくば市の教育委員会毛利先生からは、つくば市では小中学校全市の先生が全市の児童全員を指導していると認識している。それを支えるのがICTである」という意見が寄せられました。

そうだと思います。相互補完をICTが実現するのだ。何を補完するか?。それは、単純に生徒の教育に必要だけれど自分達だけでは創れないものを融通し合えばよい。僕からは、実はかなり教育では自由な設計ができる制度改正の多くが20年以上前から着実に行われていることを報告した。しかし、これら制度改革は活用されていない。さらにこれら制度改革とICTの融合設計が検討されていないことを発表しました。そして、だれが活用に反対しているかも含めてです。

教育のICT化でも、業務改革をせず、現状体制を維持したままでのその場しのぎのICT化がみられる。立場がどうであれ、20代や30代の若手がそこに果実を得られないことをわかっていながら、さまざまな要因を言い訳に改題解決に着手しないのは悲しいことだと思います。

もう、理想論はやめよう。理想を現実社会で実践しないといけない。

 

 

教育のパラドックス

こんにちは、仁藤です。

わたくし、この土日にテストを受けていました。
実は、私は鈴鹿高校の先生でありながら、慶応大学の文学部の生徒でもあるんです。
そこで、生徒が期末テストを受ける中、私自身も期末テストに向けて猛勉強しておりました。
今回受検したのは「教育学」「道徳教育学」などなど教育に関するものばかりです。

今回、それらの科目に対してレポートを書いたり
テストの勉強をする中で、心がふっと軽くなる一言に出会いました。

それは教育の本質的特徴に関して書かれたところです。

実は、わたくし、ずっと悩んでおりました。
私のようなものが教えていいものかと。
まだ、自分自身に、確固たる自信があるわけでもなく
自分の教えていることが、100%正しいと思っているわけでもなく
失敗の方が多いような日々の私が、教えることなんてあるのかと。
(私の特技はよく言うと自問自答。悪く言うとネガティブ..笑)

さて、そんな悩みを抱える中で
どんな言葉に救われたのかというと、ソクラテスの考えをベースとした
著者のこんな内容です。
(blogを更新している今現在、その教科書が手元に無いので漠然とした要約になります。
また後日教科書を手にした際に下記をきちんと引用して修正します。)


ソクラテスいわく、「人は常に善さを求め、善くなろうとする存在」だと。
そして、その善くなる過程で作り出すのが文化であり、学校で教える教科もそれに含まれる。
その文化は常に吟味される対象であり、不断の変革が必要なものだと。
なぜなら、何かを教えること(教育)とはそれを教える人(保護者・教師)自身も何が善い状態なのかを
わからない状態の中、子どもに「善さ」を教えることだから。<有名な教育のパラドックスですね。>
いま、教えている文化が「善い」ものなかのかは、その都度吟味しなければならないと。

そう、ここです。
「何かを教えること(教育)とはそれを教える人(保護者・教師)自身も何が善い状態なのかを
わからない状態の中、子どもに「善さ」を教えることだ。」

ここまで読んで、頭にがーーーーーーんと響きました。
今全国の先生たちが教えている内容は唯一絶対の「善」ではなく、
ある特定の環境で特定の時代に過ごした人が一時的に「善」として残した文化なのだとわかったわけです。

つまり、私たち教師と言うのは固定化された「善さ」を教えることが仕事ではないのですね。
特定の善さを暗記させるだけの授業はもってのほかです。
私たちが生徒に教えなければいけないのは、自身の力で「善さ」を吟味する力なのではないでしょうか。
「善さ」は代わっていくものですから。

つまり、教えている内容に、100%の自信を持つことこそがおかしなことです。
だから、私が悩んでいたことははずれではないのですね。
先生と生徒という関係性の中では、生徒とはどうしても弱い存在です。
だからこそ、自分たちの教えている内容を全面的に肯定し、教師こそ善であるべきという態度は持つべきではないのだと思います。
教師も「善さ」を永遠に探求する学習者の一人です。
その視点で見ると、教師と生徒は同じ立場なのです。


ふぅ。
と、テストを”真剣に”受けたことで、
悩みながら日々の実践を行い、それを理論的に学ぶことで整理するという作業ができ、
とても充実した休日を過ごすことが出来ました。

ちなみに、おなじ教科書の中で「教師の専門性」について言及されている箇所があり、
そこにも感銘を受けたので、次回はその話を書きます。

論理コミュニケーションの教科書と寄付

梅嶋です。

論理コミュニケーションは、いま三重県鈴鹿市の高校で科目になっています。講義ではありません。科目です。

その意味では、国語算数理科社会と同じです。違いは、国語算数・・・が、国が教える内容を定めてそれを地域の学校が実践する上意下達方式であるのに対して、論理コミュニケーションは、地域の学校が教える内容を定めて、それを市町村、正式には県教育委員会、国に伝えていく下意上達方式を採用している点です。

正式な科目ですから、教科書もあります。拙書「論理コミュニケーション」が教科書に相当します。この国では、正式な手続きを踏めば教科書を学校教育法のもとで制作することができるのです。評論家のように国の教育に批判を言いづけることをしなくても教育にイノベーションを起こすことはできます。

ただ、この挑戦をする中で、多くの人は依存が好きだということもわかりました。誰かがやるべき内容を定めてくれ、その範囲内で頑張るほうが楽だ。安心できる。でも、そうでしょうか?辣腕営業マンの育成も確かに大事です。しかし、同時に、もう頑張るだけではいけない時代が来たのではないでしょうか。そろそろ、未開拓の道を創りはじめる時期が来たと。

論理コミュニケーションの教科書ですが、少ないですが日本全国の県立図書館に寄付させていただき、誰もが読める環境を作りました。教科書を作った以上、Public Interestの形成に寄与する。それも責任だと思っています。

 

 

 

 

鈴鹿市市長がやってきた!

こんにちは、仁藤です。

今日は、2年生の論理コミュニケーションの授業に
鈴鹿市市長がゲストとして来てくださいました。

論理コミュニケーションの授業は、「読解」「構築」「議論」に
分かれていて、今日はその中の「議論」の日。
2年生は1学期の間に「高齢者の買い物しやすい街づくりは公がすべきか、私がすべきか」というテーマに対して、論文を読み自分の意見を考えてきました。

ちなみに、生徒は下記のような意見を提出しています。

「公がすべき」
・公は私よりもお金を持っている。私が行うと利益追求になりがち、それにより高齢者のためのサービスができない。

「私がすべき」
・公が行うと制約が多い。一方で、私が行うと利益を上げようと努力したり、競争することで街が栄える。
・利用者(私)が考えたほうが、利用率が高くなる。

「公と私が協働してすべき」
・公にある財源を、私の制約のない環境で運用すべき。
・公が持っている地域の情報と私が持っている改善や無駄なものは切り捨てるという力を融合する。


これら意見について、今日は市長に直接発表できるという
またとない機会でした。

最初は緊張していて落ち着きのなかった2年生も
後半になるとヒートアップして、議論が盛り上がりました。

授業が終わった後は生徒から「もっと議論したい」という声も聞こえ、きてくださった市長に感謝です。

今日の授業で思ったこと、
やはり論理コミュニケーションという授業はあくまでツールの一つ。
最終的な目的は、そのコミュニケーション力を使って社会とつながること、
社会に意見を発信すること、他者の意見を聞き取り、協働すること。
それが少しだけ垣間見えた授業が出来たと思います。


関係者各位、本当にありがとうございました。
皆さんのおかげです。


鈴鹿高校
論理コミュニケーション科
仁藤亜里

中学校出張授業

今日は、中学校へ出張授業へ伺いました。
参加した生徒は2コマで25名の生徒でした。

50分の授業ということで、伝えることが出来る内容が
少なかったのが反省点です。
もっともっと興味を持って取り組んでもらえるように、
更なる改良をしていきます。

授業の構成は下記のとおりです。
1.導入ゲーム〜なぜ伝わらないの?〜
2.文章の設計図のルールを体験
3.文章を書いてみる

授業を行うにあたって、一人一冊テキストをプレゼントしました。
喜んでもらえたかどうか、、、不安なんですが、
一応ゼロから教える内容を作り上げるという姿を見てもらえればと思ってのことです。

今日の授業で感じたことは、
やはり教える内容は絞る必要があると言うこと。
50分であれもこれもと用意すると、すべてが中途半端に終わりますね。
やはり、どこに「絞って」、いかにシンプルに出来るかこそ、
教員として求められている力なのではないかと思います。

でも、やはり教える立場に立つと不安になって
あれもこれもと手をだしがち。。。
また一つ、生徒に学ばせてもらいました。


来週もがんばります!

論理的な議論

 

Umejima_150.jpgのサムネール画像梅嶋です。

今日は三重県鈴鹿市の鈴鹿高校で開かれた『高齢者にやさしい街のインフラは、公により作られるべきか、私により作られるべきか」の高校生の議論に大学からブロードバンドを用いたインターネットテレビ会議で参加しました。

公が推進するとコンセンサスばかりでスピードが遅くなる。いや、公は情報を民に公開すべき。そうしないと事業が効率化しない。。なるほどというものばかり。

授業は、拙書「高齢者の暮らしをささえる新たな流通インフラの設計〜公と私の境界線の変更を変更させる設計〜」梅嶋真樹、月刊国民生活、2010年を 読んでもらい、その上で学生に自分の意見を論理的に書いてもらい、その意見を議論を通して交換するという単純な構図ですが、生徒の論理コミュニケーション力はかなり向上してきています。

さて、議論の司会は鈴鹿高校の仁藤先生。仁藤先生が先生をしているのを見ながら、「あっ、このCollaboyouも開始して8年たつからな」と想いを新たにしました。

この授業が15時20分で、それをさかのぼること6時間前、僕は今度SFCで始める新しいプロジェクトで大学1年生と会っていました。1時間半かけて、彼ら&彼女達の考える10年後のテレビの姿を聞きました。仁藤先生も同じような感じで僕のところに来た。「日本の教育を変えたいと(笑)」。彼女の主張無しには、僕はこの研究を開始していなかった。その後、いろいろな人が参加する。今度、久々にともに仕事ができる杉原先生は有能な参謀です。

教育を変えるといえば、今日の授業には鈴鹿市と亀山市の教育長はじめ先生方が参加して頂きうれしい言葉を頂きました。我々のプロジェクト。最初の学会では、さんざん批判されました。批判の積み重ねは、確かに自分たちの論理性を鍛え、そして設計力を磨くきっかけにもなりました。

でも、あえて言いたいです。新しい設計に批判で応えるという社会習慣は間違っています。新しい設計には、You Do! 。やってみてよ。の一言で応えて頂きたい。そうしないと新しい設計を社会で推進するイノベーターの卵から笑顔が消えてしまう。

 

 

答えのない議論

こんにちは、鈴鹿高校論理コミュニケーション担当の仁藤です。
今日は2年生の授業を実施しました。

2年生の授業は、生徒のコミュニケーションレベルと、学ぶ内容の希望によって1つの学年を3つのクラスに編成して実施しています。

コミュニケーション力が十分身についている人はグリーンクラスと呼び、前回紹介したテレビ会議システムを使って大学にいる梅嶋さんに授業をしてもらっています。
しかし、今日は特別に私も授業を担当し、梅嶋さんと私の両者で授業進行しました。

私たちが実施している授業は、基本的に3回で1セットになっています。
第1回目が、大学で読まれているような文章を読解し要約文を書く授業。
第2回目が、前回読んだ文章に対して意見を書く授業。
第3回目が、前回書いた意見を友達と議論する授業です。

今日はその3回目で、議論をする回でした。
そもそも、議論の司会を担当して、議論を盛り上げ、参加者によりよく考えてもらうと言うのはとても高いスキルのいることです。
さらに、今回は「高齢者が買い物しやすい街づくりは公がすべきか私がすべきか」という内容で、私に課せられたミッションはこの議論を深めていくことでした。
そもそも授業開始の段階で、「公がすべき」という主張の生徒がたった2人であり、対立軸をみつけていくのが非常に難しいような展開・・・。

実際に授業をしていても。。。。難しかったです。
得たこともあれば、修正しなければいけない箇所も見つかりました。

さらに、きょうは鈴鹿市の教育長と、亀山市の教育長がWで見学にこられていて、これもまた緊張する要因となりました。トホホ。ほんと、まだまだ至らないところばかりで、反省することばかり・・・。

でも、嘆いてばかりはいられません!

実は次回は鈴鹿市長が授業に参加されるので、
それまでに、今回の反省点を見直して、しっかり議論テイクできるように精進します!

鈴鹿高校論理コミュニケーション担当
仁藤亜里

論理コミュニケーションと英語の融合

 

Umejima_150.jpg

梅嶋です。コラボユープロジェクトの責任者です。

いろいろな人に、”想い”を語ることも必要だと言われてメンバーBlogという結論になりました。

ここに、いろいろ”公開可能な範囲での”本心を書いていきます。

今週から論理コミュニケーションの考え方を英語に拡大しました。

昨日から三重県鈴鹿市にある鈴鹿高校で山田貴子さん率いるWakuWakuプロジェクトと協働、今までに無い新しい英語の教育を高校生とともに開始しました。WaKuWakuは、フィリピンの次世代を担う大学生達が全世界で英語を教えることで、同地の貧困をなくそうと取り組む今僕がとても注目するプロジェクトです。

鈴鹿の高校生は、勉強が嫌いかな?と思ったけれど、「英語でしゃべりたい人は募集」と学校内で広報したらなんと10名以上の生徒が集まった。そうそう。この講座はいろいろな事情で、教育活動ではなくサークル活動、さらには僕の個人寄付で開始しました。

この取り組みの目標は講座ではなく、授業にすること。論理コミュニケーションと同じです。

この国ではとにかく新しいことを開始するとき、批評が多くてその批評に接していくうちに新しいことに取り組む人は、楽しくなくなってしまう。教育界の常識、高校教育界の常識。業界知識を4年以上学んできました。業界常識でもその中には継続すべきものと大きな変化が必要なものがあるのは事実。

若い人が革新的で老齢の人は保守的。これは間違いでした。20代で比類ない保守的な人もいる。年齢は軸にならない。

新しいことを推進するととにかく批判だらけです。ある人は、それでは儲からないという。僕はビジネスモデルの研究者でどうやってお金を回すかを常に考えているけれど、寄付で環境を作り、投資でビジネスを作るという戦略も選択可能だ。業界慣習もその業界にいる個人も簡単に変われないとも言われます。でも、環境変化に適応できない種は滅びることを先人は我々に教えてくれています。

 

 

弁論大会

今日は6年制中学の弁論大会に審査員として参加しました。

みな自分の経験をベースとした文章を仕上げており、
さらには地震に関して述べられているものも多く、
中学生のレベルの高さに驚きました。

と、同時に経験主義的な一面も垣間見ました。
論理というより、感想文にちかいかな?という印象です。
経験とは、何かいいたいことがあって、それを伝えるためのパーツ(武器)だと思うのですが、経験を伝えることが目的となっている生徒が見られたからです。つまり、意見不在。
経験だけでも十分すばらしい内容だったので感想文的でもいいんだと思います。
ただ、もし論理的な整理を行うならば、経験が一つのパーツでしかないことを理解して、もう一度組み立てると更によくなるんだとおもいます。

といろいろと言いましたが、全体的にはすばらしい内容が多かったです。

どこにいても授業が出来る!

日曜日です。
日曜日ですが、会議に参加しています。
どう教育をするのか、どんなに議論してもし尽くせない課題です。

今日の会議は、鈴鹿高校と東京をテレビ会議システムでつないでの議論です。
私は東京から参加しています。
この会議システムは、教員が学校の中にいなくても
教えることが出来るという代物です。

実際に論理コミュニケーションの授業ではこのシステムを導入し、
東京にいる大学の先生などから直接授業を行ってもらうようにしています。

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上の写真は、東京にいる先生が画面を通して生徒に指導を行っています。
生徒の机には高性能のマイクが置かれているので、生徒のつぶやきでさえも東京の講師にリアルタイムで届きます。
さらに、プロジェクターにより生徒に示されている授業内容は東京から遠隔操作をすることが可能で、東京で先生が書く黒板のような筆記物も、リアルタイムで共有できます。

これまで教育界では教師とは学校に常駐しているのが基本でした。
もちろん常に傍にいる先生と存在は教育において大変重要なものです。安心・安全を与えてくれる家のような存在です。
ただ、社会に目を開けば、教員資格を持っていなくても大変有能な先生がごろごろいます。ごろごろ。大学の先生や企業経営者、主婦、フィリピンにいる学生、、、あげればきりがありません。

学校にいないから教えることが出来ないのはあまりにももったいない。

情報機器を使って、どこからでも教えられるそんな教室を目指しています。
興味のある方はぜひ見学に来てください。

<新聞報道>全国初の教科「論理コミュニケーション」

今年4月から実施している「論理コミュニケーション」という教科に関して、新聞社さんから取材を受け、中日新聞(11/03/22)・伊勢新聞(01/11/25)・朝日新聞(01/11/16)に掲載されました。
詳しくは鈴鹿高校までお問い合わせください。


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さて今日の鈴鹿市はどんより曇り空・・・。
梅雨って本当に嫌ですよね。髪の毛がうねうねして爆発してます。
こんにちは仁藤です。

曇り空な今日ですが、今日は生徒の書いた文章をひたすら添削する一日です。
一人ひとりの悩みや想いがこめられた文章は読みながらいろいろ考えさせられますね。
論理的に整理して書いている生徒の文章は、何を考えているのかがよく伝わってきます。
そんな文章をみつけると、うれしくなってテンションがあがります。
仕事をしている中で、楽しい時間ですね。
高校生って本当にかわいいなーと思う瞬間です。
テンションあげていきます。がんばります。

鈴鹿高校
論理コミュニケーション授業担当
仁藤亜里

論理コミュニケーションという授業

大学時代から論理コミュニケーションの研究に
携わってはや8年。

昨年から鈴鹿高校に赴任し、高校生に対して
「論理コミュニケーション」という科目を教えています。

論理的に自分の意見を記述する力と
文章を読み論理的な要約文を書く力を育成しています。
これまで手探りの中、自分たちの思考の欠片を集めて創り、
創っては壊しの連続で、8年かけてようやく形が出来つつあります。

その形の一つが「テキスト」です。
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このテキストは、鈴鹿高校の「論理コミュニケーション」の授業で使用しています。
ご興味あるかたは、是非お問い合わせください。
http://p.tl/FbDa

実はこのテキストを使用する「論理コミュニケーション」の授業は、学校特設科目として、学校独自で作った科目です。
指導要領や、指導書も独自作成しています。次回にはその話でも。






鈴鹿高校
論理コミュニケーション科担当
仁藤亜里