教育のパラドックス

こんにちは、仁藤です。

わたくし、この土日にテストを受けていました。
実は、私は鈴鹿高校の先生でありながら、慶応大学の文学部の生徒でもあるんです。
そこで、生徒が期末テストを受ける中、私自身も期末テストに向けて猛勉強しておりました。
今回受検したのは「教育学」「道徳教育学」などなど教育に関するものばかりです。

今回、それらの科目に対してレポートを書いたり
テストの勉強をする中で、心がふっと軽くなる一言に出会いました。

それは教育の本質的特徴に関して書かれたところです。

実は、わたくし、ずっと悩んでおりました。
私のようなものが教えていいものかと。
まだ、自分自身に、確固たる自信があるわけでもなく
自分の教えていることが、100%正しいと思っているわけでもなく
失敗の方が多いような日々の私が、教えることなんてあるのかと。
(私の特技はよく言うと自問自答。悪く言うとネガティブ..笑)

さて、そんな悩みを抱える中で
どんな言葉に救われたのかというと、ソクラテスの考えをベースとした
著者のこんな内容です。
(blogを更新している今現在、その教科書が手元に無いので漠然とした要約になります。
また後日教科書を手にした際に下記をきちんと引用して修正します。)


ソクラテスいわく、「人は常に善さを求め、善くなろうとする存在」だと。
そして、その善くなる過程で作り出すのが文化であり、学校で教える教科もそれに含まれる。
その文化は常に吟味される対象であり、不断の変革が必要なものだと。
なぜなら、何かを教えること(教育)とはそれを教える人(保護者・教師)自身も何が善い状態なのかを
わからない状態の中、子どもに「善さ」を教えることだから。<有名な教育のパラドックスですね。>
いま、教えている文化が「善い」ものなかのかは、その都度吟味しなければならないと。

そう、ここです。
「何かを教えること(教育)とはそれを教える人(保護者・教師)自身も何が善い状態なのかを
わからない状態の中、子どもに「善さ」を教えることだ。」

ここまで読んで、頭にがーーーーーーんと響きました。
今全国の先生たちが教えている内容は唯一絶対の「善」ではなく、
ある特定の環境で特定の時代に過ごした人が一時的に「善」として残した文化なのだとわかったわけです。

つまり、私たち教師と言うのは固定化された「善さ」を教えることが仕事ではないのですね。
特定の善さを暗記させるだけの授業はもってのほかです。
私たちが生徒に教えなければいけないのは、自身の力で「善さ」を吟味する力なのではないでしょうか。
「善さ」は代わっていくものですから。

つまり、教えている内容に、100%の自信を持つことこそがおかしなことです。
だから、私が悩んでいたことははずれではないのですね。
先生と生徒という関係性の中では、生徒とはどうしても弱い存在です。
だからこそ、自分たちの教えている内容を全面的に肯定し、教師こそ善であるべきという態度は持つべきではないのだと思います。
教師も「善さ」を永遠に探求する学習者の一人です。
その視点で見ると、教師と生徒は同じ立場なのです。


ふぅ。
と、テストを”真剣に”受けたことで、
悩みながら日々の実践を行い、それを理論的に学ぶことで整理するという作業ができ、
とても充実した休日を過ごすことが出来ました。

ちなみに、おなじ教科書の中で「教師の専門性」について言及されている箇所があり、
そこにも感銘を受けたので、次回はその話を書きます。

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