大学と日本社会

面倒くさい、時間がないからこれでやるしかない、限界があるはずの自分の知識で、あらゆる問題を分かっているかのように意見主張する。

僕は、大学において、そうした事象が重要視される場面に出会うことはない。

笑い事ではなく、大学の論文が知識量の競争になってしまうと、大学の研究成果である論文を発表しあう学会は、テレビのクイズ番組になってしまう。あり得ない。

しかし、日本社会において、限られた知識を活用して、限られた時間の中でなんとか解を導き出す力は必要である。組織内外での調整対応が重要な日本の企業社会では、特に重要である。

だから、日本の大学は、日本企業が必要な就職必要実践力を開発すべきなのかー。

ORFという慶應大学SFCキャンパスでの研究発表会では、最近世界ランキング上位大学として注目されるチューリヒ工科大(スイス) のキーワードは、学生教員の国際性、大学と企業が協働した起業、大学の主軸が大学院だと言う発表が同僚の先生からあった。また、自らの観察では、日本の大学では、卒業生の多くは、就職に向かう。その一方、世界の先端大学、この5年間はアジアの先端大学の学生も大学院へ向かっている。

世界の事実を観察すると、新卒一括採用主義と大学入試至上主義が崩壊している。新卒一括採用主義と大学入試至上主義は、日本社会に独特なものになりつつある。

日本社会が世界からパッシングされてきている。海外観光客は過去最高なのに?と反論されるかもしれないが、日本社会の変化対応への遅さに、自らの力に自信を持つ世界基準なヒトが、日本社会を選択しなくなっている。私の身近でも、世界基準なヒトが間も無く日本を去る。

しかし、僕は、日本社会への不満はない。現在の自らのフィールドリサーチの場は、国際、起業、大学院だ。自らの設計を覚悟をもってやれば、問題解決できる。

まず、今月は、日本中の全ての高校の教室が、公衆網を使ってインターネットにアクセスし、国内外の高校や大学と繋いだ遠隔授業を出来る仕組みを発表した。日本の学校は、競いすぎた(黒幕がいる?)。学校は、学生の教育の為には協働するのだ。

詳しくは、こちら。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kaikaku/1358056.htm

自分を伝える最強の武器

はじめまして。
高校窓口担当、上野です。

先月7月に論理コミュニケーション(論コミ)教育セミナーを、東京と福岡で開催しました。100名以上の先生にご来場いただき、また予想以上の反響に、論コミを推進する一人としてとても嬉しく思っています。

わたしが論コミを知ったのは、大学院生として修士論文にとりくんでいる時でした。この「文章の設計図」を早く教えてほしいかった!と心のこそから思ったとこをよく覚えています。

さて、論コミは、自分を知らない相手に、自分の意見を伝える最強の武器になります。学校という場は、自分のことをよく知っている人とコミュニケーションをとることが多いので、相手は言いたいことを「汲み取って」くれますが、一歩外に出たら、工夫しなければ相手には伝わりません。論コミを学べば、その訓練を高校の早いうちから出来るのです。

高校では大学受験の時、大学では就職活動の時に、そのような「(汲み取ってくれないので)伝わらない」問題に直面し、さぁどうしよう!焦 →対策!汗・・・という流れになりがちですが、直前に詰め込んだノウハウや知識では限界がすぐ来てしまいますし、残念ながらすぐ相手にバレます。

だから、日常的に自分の好きなことや、苦手なことは何なのかを考えることが重要!と、よく言われますが…加えて、それをどう相手に伝えるのかー。ここまで考えておくことが大切なのではないかと私は思います。
論コミを一生懸命取り組めば、言語という表現方法で自分を相手に伝える力を確実に鍛えることが出来きます。

時間をかけるのは罪なのか?

時間をかけるのは罪なのか?

15年前に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)で研究が開始された「論理コミュニケーション」

大学における研究の国際基準に従う「論理コミュニケーション」は、社会実装に辿りつくまでに10年を要することを研究開始当初から予測していました。しかし、結果的には、5年余分に時間を要しました。なぜ、5年余分にかかったか。それは、長くなるので今回は書きませんが、今の日本と言うシステムが持つ課題だと思います。 一言で言うならば、課題解決には、リスクを取れる人材が大事で、リスクを回避するためではなく、リスクを取れるようになるためにヒトは学ぶのだと言うことです。15年を経過した今、「論理コミュニケーション」は、多くの高校や大学の先生が参画する「プラットフォーム」になりました。

10年、さらには15年と言う挑戦を前に、多くの学生、多くの教育産業に関わる企業が「論理コミュニケーション」から去りました。その意見は、「活動は素晴らしいけど、わたしには就職があります」「当社では、一つの商品開発にそんなに時間をかけられない。大学とは違い、収益を上げないといけない」などです。

前者の学生は、正解です。私は、SFCで起業家論を教える教員の1人ですが、いつも学生にこう言います。

「いますぐ起業家にならないで欲しい。社会に出て、自らが所属する組織から受ける制約が自らの進化を止めると分かった時、起業家と言う選択があると分かっていて欲しい。会社が全てではない。転職が全てではない」

しかし、後者の教育産業に関わる企業の声には疑問を持ちました。もちろん、企業では、収益が大事なのは当たり前です。私も企業で短期間で収益をあげてきた実績から生まれる自信を根拠に大学へ来ました(実際は、企業社会と大学社会は、サッカーと野球ほどの違いがありました)。

しかし、問いたいのは、

「学校教育は、企業が収益を上げる場所なのか?企業が他で得た収益を還元すべき場所ではないのか?」と言う問いです。

15年の「論理コミュニケーション」研究は、学校かやる気になれば、学校が主体となり、偏差値に差異なく、社会や大学が必要とする論述力を全ての高校生か習得出来るようになる道具になりました。そして、その道具は、高校と大学の「プラットフォーム」で運用されています。

高大から集った「論理コミュニケーション」の研究開発者に委ねられたのは、Money(金)かValue(価値)かの選択でした。

考えた末の意思決定は、Value(価値)でした。

「論理コミュニケーション」のValue(価値)の定義は、論理コミュニケーション」は、第一に、慶應義塾大学出版会や文科省特設Webから案内される教本、SFCの諸先輩方が築かれた高大連携組織である「SFCフォーラム」から提供される専門家による毎学期の効果測定を組み合わせて高校の正規授業品質で学ぶことが出来る、第二に、入試偏差値に関係なく誰もが600字以上の論理的な論述が出来る、第三に、学生1人あたり月額300円の経済負担で学ぶことが出来る、第四に、「論理コミュニケーション」の運用は、高大連携で行うことが出来る、です。

最後に「論理コミュニケーション」研究開発者の私は、家も買わず、高級車も買わなかったです。研究には確かにお金がかかった。しかし、それが社会的責任(Social Responsibility)と言うことだと知ったのは、SFCの諸先輩の教えです。もちろん、私のその意思決定に悲壮感はありません。それは、私が、国内外の電力システム開発の最前線に居て、評価される実績をあげ、更には、未来を予想出来る嬉しい提案を頂けていることを根拠にした、新たな「自信」です。

やはり、学校教育は、企業が収益を上げる場所ではなく、企業が他で得た収益を還元すべき場所です。