2014年3月

バベルの塔再び。

新しい携帯にしたときって、説明書読みますか?


1. とりあえず、電話やメールができることが大事
電話とメールの機能をどのように使うか、というところでは初めてというところもあり、
少し慎重に操作などを確認しながらやるかもしれませんね。場合によっては、説明書など読んだりするでしょう。
使っているうちに、もう電話とメールはプロ。電話帳から簡単に電話をかれられるし、
タイピングも速くなるし、絵文字やショートカットなども使いこなせるようになりますよね。

2. そのほかの機能もいじってみる
携帯電話の基礎機能の電話とメールがわかったら、ほかの機能については、
携帯をいじりながら理解していくことってないでしょうか。
たとえば、カメラとか、わざわざ説明書を見なくても、いろんなボタンを押してみて、
前後カメラの切り替えだったり、シャッターボタンを見つけたり、ビデオに変えてみたり。
撮った写真は、わざわざアルバムを開けなくてもカメラからジャンプできるんだーってことなどを
使いながら理解していく。失敗もあると思います。
例えば、シャッターボタンのつもりが、間違えてホームボタン押してしまったり
(iPhoneユーザーさん、理解してほしいです。笑)、
アルバムからどうやってカメラに戻るのかわからなくなったり。
そんなこんなで、いろんな携帯の機能を学んでいきますよね。
1ヶ月もすればもう、目覚まし時計や、電卓、カレンダー、他のアプリなど使いこなしてるんじゃないでしょうか。

3. たまにある新発見
もう基本的にはなにも困ることはないユーザーなんだけど、
友達の使い方をみて新発見があるときはないですか?
ホームボタンと上のボタンでスクリーンショットが撮れる(iPhone)とか、
ホームボタン長押しでSiriを呼び出せるとか。(私、これまさに、最近教えてもらいました。笑)
基本は使えるので、なにも不自由はないのですが、新たな機能を知って、更にレベルの高いユーザーに。


英語を携帯電話と同じコミュニケーションツールと考えれば、この方法と、
これくらいの気軽さで学べばよいと思っています。
文字を打つときは絶対フリック入力!とかないでしょう?ローマ字打ちでも平仮名打てます。
それで、どっちの人も文字を書いて、コミュニケーションできてる。
スマートフォンでフリック入力してない人を笑うなんて、ばかばかしいでしょう?そんなの人それぞれじゃないですか。


「英語は津波のように他の言葉を消し去ってしまうものではない。(中略)
英語はアメリカが強制しているのではない。世界が必要としているのだ。」(下のTED動画より)


携帯電話みたいに、みんなが使うものだとして、それでみんなコミュニケーションしていて、
そこには、「正しい、唯一の使い方」なんかないとしたら、英語もそれと同じ状況になっていると思います。
使うための最低限の共通のルールはあるとしても、通じ合うことが第一の目的だとしたら、
発音が変だとか、ちょっとした文法が間違ってるとか、気にする必要はありません。

「英語は世界共通の問題を解決するための共通の言語となりうる。」(下のTED動画より)


昔神様がバベルの塔を作った人間たちにバツを下しました。
お互いコミュニケーションできないように、それぞれに違う言語を与えました。
みんなでコミュニケーションできるようになったら、また、協力できるようになりますね。



English Mania(動画)
http://www.ted.com/talks/jay_walker_on_the_world_s_english_mania




英語を学んで英語圏の文化を学んだり、素晴らしい美しい発音や表現を身につけることを批判しているわけではありません。
英語が好きな人はネイティブのように話せることを目指せば良いと思います。
ただ、それを目指すあまり、英語をのびのびと話せなくなるのは残念だなと思います。
また、それによって英語嫌いの生徒が増えるのももったいないなと思います。
携帯電話を試行錯誤で学んで、ある程度使えるようになる。
そんなゆるさを残した英語教育していきたいです。

ある意味同時通訳。

外国語を母語を介さずに外国語で思考できれば、そこには翻訳という作業は入らないのですが、
一度日本語で考えて、それを英語で発信するということをしているうちは、それは翻訳であり、
会話の場面であれば、ある意味一人同時通訳しているんだと思うのです。

私も、簡単なことは英語がぱっと口から出ますが、普段話し慣れてない話題になると、
まず日本語で思考して、それを英語に変換するという作業をものすごい速さで行っています。
そう考えるとやっぱり同時通訳なんじゃないかと思うのです。

では、一人同時通訳をスムーズにできるには何が必要か?
それは「イメージ」なのではないかと思います。
母語なら、「イメージ→母語」をほぼ一瞬でできます。
それが、外国語になると、「イメージ→母語→外国語」という流れになり、考えることが大幅に増えます。

具体的には、こんな感じでしょうか。
1.イメージが日本語で浮かぶ。(ここは超高速)
2.日本語に合う英単語を頭の中で探しまくる。たくさんの引き出しを開け閉めする。(語彙)
3.そんなこんなでやっと見つけた英単語を並べる。(文法)
こんな経験ないですか。
私は今でもあります。
2と3でかなり時間がかかってしまいます。
これを少しでも短縮するのに大切なのは、「イメージ→外国語」という流れ。

イメージから英単語がぱっと思いつくのがよいなと。
だからこそ、学ぶ時に「外国語→イメージ」にしてしまおうと。
「外国語↔イメージ」この繋がりが大切だと考えています。
これで、少なくとも2はスピードがあがると思います。

私のテキストでは、イラストがたくさんあって、
イメージで英語を考えられるようにしたいなと思っています。
頭の中にたくさんの引き出しを作るのではなく、
ほわわ〜んとした雲がたくさん重なり合っている感じが理想です。




「外国語としての英語を考えるとき、意味情報として無視できないのが訳語である。
訳語を使うことによって、母語で形成された意味概念を容易に英語の語彙に適応できるからである。
しかしながら、訳語自体と意味概念とは情報としては別個のものである。
(中略)したがって、語彙指導の過程においても、訳語を媒介としながらも、
イメージを活性化するなど語形と概念を直接結びつけられるような方策をとる必要がある。」
(門田・池村『英語語彙指導ハンドブック』)






ほわわ〜ん、ほわわ〜んがゆるくあれば、
若干イメージ間違えたとしても、相手は理解してくれるんじゃないかなーって。
例えばwatchとlookとseeとか。

中国語ではヨーグルトを飲むって言います。

「言葉を学ぶことは、その文化を学ぶこと」とよく言われますが、まさにその通りだと思います。
言葉を見れば、その言語を話す人たちが、その対象をどのように捉えているのかがわかるからです。

例えば、
日本語「薬を飲む」
中国語「薬を食べる」吃药
英語「薬をとる」take medicine

こういう違いを知ったときの面白さというのは、言葉を学ぶ上でたくさんあると思います。
でも、こういうことに興味のない人や、とにかくそんなことよりもコミュニケーションできるようになりたいと
考えている人にとっては、言語を学びながらその文化を垣間見て楽しむというようなことは必要ないでしょう。

しかも、英語については国際共通語となっている今、
コミュニケーションツールとして学ぶことのほうが多いかもしれませんね。
非ネイティブ同士で話すことなどを考えれば、
お互いの母国語が英語に反映されてしまっている可能性が大ですので、
そういう点からみると、英語はその時点で、「英語圏の言語」以上のものになってしまっているように感じます。

私の考えている英語教育プログラムも、英語を学ぶことを通して英語圏の文化を感じるというよりは、
英語を使ってコミュニケーションできるようにしよう!というのが一番の目標にきているので、
テキストを学びながら特に英語文化を学ぶようにはなっていません。
「英語圏の文化や、きれいな英語を身に付けることが大切だ」という意見をきくたびに、
自分の考えていることが言語化できずに、むむ…となってしまっていたのですが、
以下の本を読んでいて、なるほどなーと思わされました。


"But Globish does not aim to be more than a tool, and that is why it is different from English. 
English is a cultural language."
(Jean Paul Nerriere, David Hon "globish - The World Over")

(※グロービッシュ(globish)とはグローバルに使える共通語を目指して
フランス人のジャン・ポール・ネリエールが提唱した、英語の一種です。)


私の考えている英語教育プログラムの英語の位置も
まずは、「コミュニケーションツール」以上にはなり得ないなと思います。

チュンチュンチュン、チューンチュン。

鳥の鳴き声を聞き続ければ、理解できるようになるか。


個人的にはならないと思います。
でも、例えば、ずっと鳥を観察していて、
なんらかの、パターンを見つけて、
チュンチュンと言っているときは、あいさつだなとか、
チューンチュンと言っているときは、愛を伝えているなとか、
理解できれば、また話しは変わってくると思います。

つまり、言葉を理解するには、「気づく」ことが大切なのです。
気づきがすべての始まりだそうです。
赤ちゃんが言語を習得するときも、
お母さんに「いぬ」を教えてもらったときは、
動物全部を「いぬ」と認知するかもしれません。
けれど、その後経験により、「いぬ」は大人が認識する「いぬ」に近づいてきます。
「気づき」があり、「理解」してゆくのです。
 

よく、友人に「本当に聞いているだけで英語が話せるようになるのか」と聞かれますが、
私の答えは鳥の鳴き声の話と同じです。
ときどきでも、何を言っているのかわかれば、身にはなると思います。
全然、さっぱりなのであれば、だめだと思います。
「英語のラジオを聴き続けて、いきなり理解できるようになった!」というのをたまに聞きますが、
それは、すでに英語のみを聞き続けてもよいレベルだったからだと思います。

しかも、「話せるようになる」かどうかについては、個人的には難しいと思います。
ただ、大量のインプットのみで、「話せるようになる」という研究結果もあります。
また、何を話せようになるのか、というのも大きなポイントだと思います。


「まったく理解できないインプットを大量に聞いたとしても、
このような気づきは起こらない。例えば、英語を始めたばかりの中学1年生にCNNのインタビューを
聞かせても、理解ができないばかりでなく、気づきもほとんど起こらないはずである。
インプット全体の意味はだいたい分かるが、分からないことも少しある。
そのようなインプットが言語習得を促進する気づきを引き起こすと言えよう。」
(村野井仁『第二言語習得研究から見た効果的な英語楽手法・指導法』)
を読んでいて、自分の考えは間違ってなかったなと思いました。

毎日電子計算機で仕事をしています。

個人的にカタカナは英語学習に役に立つと思ってます。
なぜなら、その分新しい英単語を覚える手間が省けているから。
たまに、「あ、これ英語だったんだ。ラッキー」というときがあります。

もちろん、負の効果もあります。
日本語で使われている意味と、英語で使われている意味が違う場合や、発音が全然違う場合はちょっと大変です。

例えば、メリットでいうと、
トイレとか、ホテルとか。
カタカナじゃなかったら、他の単語と同じように覚えなくてはならないものが身の回りにたくさんあります。

デメリットは、例えば、
パソコン、テレビとかの、略称。
コンセント、のような英語にはないカタカナ。
ブレスレット、のような発音がかなり違うもの。ブレェィスレット的な。(経験済)
デメリットは、どれだけ英語っぽく発音しても伝わりません。笑




「カタカナ英語は百害あって一利なし!」と力強く言っていた英語教育の教授がいて、
じゃあ、この人は娘に「受像機の遠隔操作機とって。」とか言ってんのか?
と皮肉を考えてしまったのをふと思い出しました。



P.S カタカナだと固有名詞みたいに使われていて、意味がわからないけど、
それをを漢字に直して、その意味がはっきりわかるのは、個人的に好きです。
リモコン=遠隔操作機、みたいな。その点では、中国語は全部漢字にしちゃうので、いいなーと思います。

はい、いいえ。Yes.No.

「本当に要らないの?」「うん」(うなずく)


は日本語で、これをこのまま「うん」=”Yes”に翻訳すると英語ネイティブには逆の意味にとられます。
つまり、「本当に要らないの?」「Yes(要る)」ということです。
私はこれを昔経験してコミュニケーションがぐっちゃぐちゃになった思い出があるので、そこから気を付けるようになりました。

ですが、アジアの友達と英語で話しているとどうやら母語が日本語と同じ構成のようで、
英語で話しているんだけど、「うん」=”Yes”でコミュニケーションしています。
お互いの母語の特徴がそのまま英語に現れて、それでいてコミュニケーションが成立しています。

というわけで、私の中でこの部分のプライオリティをかなり下げました。
生徒が間違って使っていても、むしろ修正しな…(略) 
これを使いこなすには相当時間がかかりますし(経験則)、アジアで通じてるならいいかと。
ネイティブとコミュニケーションできなくなったときには、Yes/No以外で答えればよいかなと。
「本当に要らないの?」 「I don't」っていえば完璧かなと。



Yes/No問題は日本人がとても気にするところですが、時間がかかるうえに、代替があるので、
もっと他の大事なところに時間をかけたほうがよいなーと考えています。




「外国語を身につけようとするならば、「教わり慣れ」した学習態度を捨て去り、試行錯誤を繰り返し、
誤解や摩擦を経験しながら学ぶ姿勢をもたなければなりません。」 (『日本の英語教育に必要なこと』)
を読んでいてふとそんなことを思い出しました。

読めない私からすれば、読めることも大切なのですが。

多くの高校生は、見たら意味がわかる単語はたくさんもっています。
けれど、それらを使って自分の言いたいことを表現できるかといえば、必ずしもそうではないです。

見てわかる単語が多いです。(受容語彙)
でも、表出できる単語は少ないです。(発表語彙)


受容語彙を増やす理由は、英語を学ぶ目的が大学受験だからだと思います。
文章を読んで、問に答えるには、見てわかる単語がたくさんあったほうが、有利です。
高校生と話していると、英語が話せるようになることよりも、目の前の大学受験のほうが大切みたいです。
私も高校生のときは、そうだったので、理解できます。
というか、それしか選択肢がない感じ。

中・高6年を通して3000語の受容語彙を覚えてセンター試験で8割とるよりも、
1年間で、500語の発表語彙を身に付けて、外国人とコミュニケーションできるようになったほうが楽しいと思うので、
そんな機会を与えてあげられるようになりたいですね。

なので、英語を学ぶ目的を大学受験ではなく、
人とコミュニケーションすることにして、
単語も大幅に減らして、テキストVer2.を作ろうと思っています。
Ver1.はなんの理論背景もなく、ただ経験則で作ってしまったので、
Ver2.はぜひ、理論的に説明できるようなテキストに仕上げます。


(何度自分の案を提示しても、いろんな人に毎回めった斬りにされるので、
めげそうですが、がんばります。
まあ、根拠が明示できてないので、自分のせいです。)


「英語のように分析型言語では、語の数よりむしろ語の内容、理解の質が問題となる。
外国語学習ではとかく単語を覚えることに夢中になるが、意味がよくつかめないままたくさん覚えても、
実際にその語をうまく使うことはできない。
ただ、語数といっても受信(認識)用と発信用との区別は考えなくてはならない。
受信のためには語も多くしっている方が有利であるが、発信には少数でも使いこなせる語の方が便利である。」
(相沢佳子『ベーシックイングリッシュ再考』)
を読んでいてそう思いました。

バカにしてきたら、残念な人だと思おう。

「何言ってるかわからない」と言って、日本人の自信をなくさせ、
有利なコミュニケーションの流れを獲るという戦略があるそうです。


日本人の性質をよく知っているなーと。

日本人の英語発音は、確かに世界でも評判みたいです。
でも、それって、しょうがない。ですよね。
アメリカ人が日本語を話すときに「スゥーシー!」となるのと同じで、
自分の母語の舌の使い方とかっているのはそんなに簡単に矯正できるものではないです。
だから、本当はそんなこと気にする必要ないんです。
なまってても、外国人の日本語って理解できますよね。


Englishesという考え方があります。
English+es (複数形)
つまり、英語は一つではなく、たくさんあるということ。
英語が世界共通語として使われるようになって、
イギリスや、アメリカやオーストラリアで話される英語がすべてではないようになりました。
ネイティブよりも、ノンネイティブの方が英語話者が多いので当たりまえなのですが。
お互いに「理解し合う」ためにコミュニケーションするのであれば、
もう少し歩み寄って、話し手も相手に伝わりやすいように、
聞き手も相手が何を言っているのか理解するように努めれたらいいなと思います。
世界共通語としての英語なんだから、そういう姿勢でいきたいですね。


英語を学ぶのは確かに難しいんですけど、
でも、もっとネイティブ以外の人たちとも、
完璧じゃない英語でコミュニケーションしてみてほしいなと思います。




「国際共通語としての英語とは、自分らしさを出したり、
自分の文化をひきずったりしてもいいということ。
『アメリカ人はそういわない』と言われれば『日本ではいうんだよ』と答えればいい。」
(鳥飼玖美子『国際共通語としての英語』)
を読んでてふと思いました。