2011年8月

小学校訪問

こんにちは、仁藤です。


今日は、河曲小学校へ訪問し、
教員の皆様へ論理コミュニケーションのワークショップを行いました。

みなさんお忙しい中熱心に取り組んでいただき、
また、校長先生が同行してくださったことで熱い議論が展開できました。

感想を書いていただいたので、それをみるのが怖いような楽しみなような・・・。

ただし、もし本当の意味で論理コミュニケーションを教える
教員を育てるのだとしたら、やはり60分では足りません(当たり前ですね・・・)
大学生を対象に研修プログラムを実施するのであれば、
もう少し体系だてた実施が必須だということを実感しました。

とくに理論編の部分の読み込みが重要です。


しかし、今日のようにいろんな先生に少しの時間とはいえ
自分たちの活動を理解してもらえる機会をいただけることは
光栄なことですね。
本当に、機会を与えてくださった先生方に感謝です!!!

生徒の中間報告

昨日の日曜日に、鈴鹿高校3年生のある生徒が
自主的に進めている研究の中間発表会を行いました。

半年前は、一言二言しか発しなかった彼女が
自分の問題意識を論理的に整理し、
しっかりと問題提起している姿を見て、
人は成長するものであるということを強く実感しました。

彼女の指導をしたのは梅嶋さんなので、
私が詳しく言うことではないのですが・・・・。
半年前に比べたら彼女の表情に自信が生まれているように見えました。

時にはサポートし、時には突き放すことで
最初は自分だけでは思考を深められなかった彼女が
最後は自分で自分のスケジュール管理をし、
多くの本を読み、それら本と自分の考えの立ち位置を整理し、
立派にまとめていました。

生徒のちょっとした問題意識を信じ続けると、
最高のプレゼントを返してもらえますね・・・。

時間給という働き方

こんにちは、仁藤です。

前回のblogで目指せ毎日更新!とかいいながら
初回から2日あけてしまいました。
3日坊主どころか、1日坊主です。うそつきレベルですね。
・・・めげずにこれからもがんばります!!

先日のblogでも投稿したのですが、現在大学の授業を受けています。
今回非常に感銘をうけたのは国文学の授業。
井上靖や夏目漱石などの名文をよみ、文学を使って
近代社会と人間との関係を読み解いていきました。

もう、これが、ゾクゾクするくらい楽しい授業でして・・・。
授業中やテスト中に寝てしまうことも多かった学生時代からすると、
180分の授業がまったく苦にならず、むしろ目が冴え渡っていました。

楽しかったんです。
先生の言葉が話が議論が。

やはり学習の基礎には
「楽しむ」ということがあるということを再認識しました。

その授業の中で”時間給”という働き方について触れられたので
ここで私の所感を書きます。

私は働く上でうんざりしていることがあります。

それは・・・・
「今月は●●時間残業した」とか「●時間働いている」とか
「今年まだ休んでない」とか、「●●時間しか寝てない」とかの
”俺、こんだけの時間働いているんだぜ”の自慢大会。
それを聞くときは、口では「すごいですねー」とはいうものの、
内心どうでもいいって思ってます。

なぜなら、私はこう考えます。
働くことって時間を消費することじゃないのではないかと。

長い時間働くのが楽しい人もいれば、ゆっくり価値を出していく人もいる
時間というのは人それぞれ個性があっていいと思います。
むしろ、大切なのはどれほどの価値を出せたかなのではないでしょうか。

私は、何時間働いたかを自分に問うのではなく、
どのくらいの価値が出せたかを自分に問う人になりたいと思ってます。

なんだか論理コミュニケーションには関係の無い話題ですね・・・。

炎天下のなか大学に通い宿題やレポートを書く毎日で
体力的には精一杯なところがあるのですが、
様々な先生に出会えるという点で本当に幸せな夏休みです。明日からもがんばります!

県知事との議論

おひさしぶりです。
仁藤です。ずいぶん更新していなかったので、少し時間をさかのぼって7月の話をします。

7月31日に鈴木英敬県知事が授業に来てくれました。
生徒と同じ目線で「教育内容は誰がきめるものなのか」という議論を
真剣にしていただき、生徒ひとりひとりの目がぎらぎらしていく瞬間をみせてくれました。

ただし、これは県知事を呼んだことがすごいのではありません
それは市長が来たときも同じなのですが、
誰か偉い人と外の人と議論すること単体ではただのイベントどまりです。
議論に参加した2年生は、約1年間授業を受けてきて
ようやく外の人間と議論をすることができました。

私はこの1年間がとても重要なのだと思っています。
論理的に読んだり書いたりする経験を1年間経てから
議論をするからこそ意味があるのです。

「もう論理コミュニケーション能力は十分にみについた」と思っていた生徒にとっては
論理コミュニケーション力というのはただのお皿にすぎず、
それに何をのせて、何を相手に伝えるかは永遠にゴールのないものだとわかった機会になったでしょう。
「論理コミュニケーション力を伸ばすことに意義が感じられていなかった」生徒にとっては
論理コミュニケーションを身につけた先に、同じ志をもつ仲間とめぐり合え、
社会に主体的に参加する世界が広がっていることが感じられたでしょう。

それぞれの生徒が、1年間がんばって身につけたからこその
議論であり、市長であり、県知事なのです。


ただの、イベントとはそこが違います。
ただ単に県知事をよべば面白い授業が出来たのか?というと
そうではないということを、ここに記しておきます。

追伸
現在毎日大学に通う生活をしています。
久しぶり(1年ぶり)の大学の授業はやはりとても面白くて
180分があっというまで、先生の言葉に目がぎらぎらします。
毛穴が全て開くかのような感覚で、ひとつひとつの言葉にわくわくしています。
先生方とも議論をさせていただき、素敵な出会いもありました。あー楽しい。
いくつになっても学ぶことは本当に面白い。自分の知らない世界がまた広がっていく。
次回は、授業内容から感じたことを書きたいと思います。
(目指せ!夏休み中はほぼ毎日更新!という目標が3日坊主にならないようにがんばります)

今年も一人ずつデータで確認

梅嶋です。

今週は、論理的であることの重要性を改めて気づかされました。

第一に、鈴鹿高校で論理コミュニケーションを学ぶ新一年生のデータだ。今週、全員分の回答、論理コミュニケーション力測定テストcollaboyouの計測結果、そして電子ペンアノトを用いて構築した論理コミュニケーションの時系列分析機(通称、論理コミュニケーション版CTスキャン)の測定結果を一つずつ精査しました。夕方から初めて終わったら22時でした。

生徒の論理コミュニケーション力は、かなり成長してきている。これまでの我々の研究では、論理コミュニケーション力は受験偏差値に相関があり、さらに就職で求められる力と相関が高いことが判明している。しかし、今回のデータは、これまでの検証結果を覆しそうだ。論理コミュニケーションは偏差値などと関係なく育成可能、加えてこのような能力は全員保有しているから就職試験の合否の基準にならない。

第二に、論理性の有無に年齢は無いということだ。生徒と先生のコミュニケーションを対象に面白い研究を始めた高校生。結論を論理的に導き出したいから1時間半の議論があっという間に過ぎてしまった。そして、一度も論点がずれることがない。

一方、大人の議論はどうか?正直、高校生の議論に論理性の観点で負けている議論が多かった。論点が飛ぶ、発散する。言いたいことが次々に言われているだけ。深まらない議論。議論自体が目的化しているからなのか。。。

論理的コミュニケーション。あなたもいかがですか?下記教科書でこっそり一人でも始められます。

 

教科書「論理コミュニケーション」

 

 

 

知事と鈴鹿高校の生徒の授業に参加

梅嶋です。

久しぶりに更新です。

7月最終週の先週(今は8月1日。)は、面白い1週間でした。

インドネシアからアドバイザーを務める潮力発電の大学ベンチャーとそれを支えるインドネシアのバンドン工科大学のインキュベーターの親友を日本に呼びいろいろな人と今後の設計を議論。そして、7月31日には、鈴鹿高校で全国最年少知事でもある三重県知事と鈴鹿高校の生徒の論理コミュニケーション授業にテレビ会議で参加した。

すごい時代。インターネット万歳だ。

鈴鹿高校の生徒は、教育にテレビ会議は使えないなどいう学生は誰もいなくなっている。普通にこっち向いて、「いや、こういうことを言いたかったのだ」と言っている。こんな素晴らしい機器の活用に反発するのはいったい誰なのか?と思ってしまう。

インドネシアのメンバーもそう。日本の企業を訪問したが、テレビ会議で何度も議論したうえでの”再会”は、議論をすぐに建設的な設計の議論にさせた。そのおかげで、ちょっとの空き時間に秋葉原に行けた。そう、Akihabara。すでにインドネシアでも有名。自由な雰囲気が魅力。

思えば、ちょうど一年前鈴鹿で初めて論理コミュニケーションを教える授業を開始した、鈴鹿高校を挑戦の場に選んだ仁藤先生と採用したテーマが、「どうして日本では起業や挑戦が少ない?」そして、本日のテーマは、「どうして三重では教育を自分達で設計できない?」。昨年よりもより、具体的な議論となった。

昨年と今年の最大の違いは、知事が来ても、論理的に議論できたということ。生徒は、自分たちの設計で教育を創れない際に何が障害となっているのかを論理的に説明していた。議論可能な形での情報発信だ。だから、次に何の設計が必要かを検討する建設的な議論を行えた。論理コミュニケーションは、批判にさらされつつも、確実に何かを作り出している。

インドネシアの親友たちとの議論、そして本日の鈴鹿の生徒たちとの議論でも焦点となったのが、新しい調整に対する、(周囲の)批判。

新しい設計、新しい挑戦に対して「批判」で返すのは辞めようということ。それだと、挑戦することは、楽しみではなく戦いとなってしまう。

挑戦をしかめっ面から笑顔に変えないと楽しくない。

写真は、忙しい日程を縫い、秋葉原に行き、日本でも自由な雰囲気があると知って喜ぶインドネシアの親友

 

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