時間をかけるのは罪なのか?
時間をかけるのは罪なのか?
15年前に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)で研究が開始された「論理コミュニケーション」
大学における研究の国際基準に従う「論理コミュニケーション」は、社会実装に辿りつくまでに10年を要することを研究開始当初から予測していました。しかし、結果的には、5年余分に時間を要しました。なぜ、5年余分にかかったか。それは、長くなるので今回は書きませんが、今の日本と言うシステムが持つ課題だと思います。 一言で言うならば、課題解決には、リスクを取れる人材が大事で、リスクを回避するためではなく、リスクを取れるようになるためにヒトは学ぶのだと言うことです。15年を経過した今、「論理コミュニケーション」は、多くの高校や大学の先生が参画する「プラットフォーム」になりました。
10年、さらには15年と言う挑戦を前に、多くの学生、多くの教育産業に関わる企業が「論理コミュニケーション」から去りました。その意見は、「活動は素晴らしいけど、わたしには就職があります」「当社では、一つの商品開発にそんなに時間をかけられない。大学とは違い、収益を上げないといけない」などです。
前者の学生は、正解です。私は、SFCで起業家論を教える教員の1人ですが、いつも学生にこう言います。
「いますぐ起業家にならないで欲しい。社会に出て、自らが所属する組織から受ける制約が自らの進化を止めると分かった時、起業家と言う選択があると分かっていて欲しい。会社が全てではない。転職が全てではない」
しかし、後者の教育産業に関わる企業の声には疑問を持ちました。もちろん、企業では、収益が大事なのは当たり前です。私も企業で短期間で収益をあげてきた実績から生まれる自信を根拠に大学へ来ました(実際は、企業社会と大学社会は、サッカーと野球ほどの違いがありました)。
しかし、問いたいのは、
「学校教育は、企業が収益を上げる場所なのか?企業が他で得た収益を還元すべき場所ではないのか?」と言う問いです。
15年の「論理コミュニケーション」研究は、学校かやる気になれば、学校が主体となり、偏差値に差異なく、社会や大学が必要とする論述力を全ての高校生か習得出来るようになる道具になりました。そして、その道具は、高校と大学の「プラットフォーム」で運用されています。
高大から集った「論理コミュニケーション」の研究開発者に委ねられたのは、Money(金)かValue(価値)かの選択でした。
考えた末の意思決定は、Value(価値)でした。
「論理コミュニケーション」のValue(価値)の定義は、論理コミュニケーション」は、第一に、慶應義塾大学出版会や文科省特設Webから案内される教本、SFCの諸先輩方が築かれた高大連携組織である「SFCフォーラム」から提供される専門家による毎学期の効果測定を組み合わせて高校の正規授業品質で学ぶことが出来る、第二に、入試偏差値に関係なく誰もが600字以上の論理的な論述が出来る、第三に、学生1人あたり月額300円の経済負担で学ぶことが出来る、第四に、「論理コミュニケーション」の運用は、高大連携で行うことが出来る、です。
最後に「論理コミュニケーション」研究開発者の私は、家も買わず、高級車も買わなかったです。研究には確かにお金がかかった。しかし、それが社会的責任(Social Responsibility)と言うことだと知ったのは、SFCの諸先輩の教えです。もちろん、私のその意思決定に悲壮感はありません。それは、私が、国内外の電力システム開発の最前線に居て、評価される実績をあげ、更には、未来を予想出来る嬉しい提案を頂けていることを根拠にした、新たな「自信」です。
やはり、学校教育は、企業が収益を上げる場所ではなく、企業が他で得た収益を還元すべき場所です。
2018年8月11日 14:28 | 記入者: 梅嶋