2011年7月

論理コミュニケーションEnglish最終日!

久しぶりの更新になってしまいました。
こんにちは、仁藤です。

本日は、夏期講習の最終日とともに、
2ヶ月間限定で開講していたWAKUWORKとの連携で行った
英語の授業の最終日でもありました。

夏期講習では、「市場の真実」という本を読み、
「自然発生的な秩序」と「集権化」について考えました。
この夏期講習での議論をベースとして週末にビックイベントが控えています。
それはまた後日お知らせします。

そして、なんといっても本日のメインは
WAKUWORKとの連携授業の最終日だったこと!
代表である、山田たかこさんも駆けつけてくれました。

いつもどおりの授業を行っていたのですが、
山田さんいわく「生徒が普通に英語で会話できていてすごい!」とのこと。
みんな、よくがんばったね。(いや、楽しくて続けてただけだけどね。。。)

そして、今日は山田さんがビックなプレゼントを持ってきてくれました。

それは、フィリピンの先生たちからの直筆メッセージとフィリピンのお土産etc。
そ、し、て先生たちが編集したビデオメッセージ!!!!!
ビデオメッセージは、プロジェクターに投影して参加者全員と、skypeをつなげて
フィリピンの講師の皆さんと一緒に見ました。
なんだか、ちょっとうるうる。。。。暖かい気持ちにあふれたビデオでした。
生徒の心にもきっと響いたと思います。

実は、鈴鹿高校のメンバーもまけずと感謝の気持ちを表したサプライズビデオを用意していました。
そのビデオも講師のみなさんといっしょにみて、とても楽しい時間を過ごしました。

今回の2ヶ月間の授業でわかったのは、3点です。
1.先生は全世界にいるということ。
 フィリピンの講師陣の育むことに対する熱意はすばらしいものでした。
 また、授業教材がそれぞれの国のアイデンティティを考えるものであり、
 レベルの高い異文化交流、意見交流、コミュニケーションが出来ていたと思います。

2.英語はコミュニケーションのツールに過ぎないということ
 生徒は、最初英語を身につけたくて授業に参加していました。
 しかし、回数を重ねるごとに、先生ともっと話したくて、先生にもっと自分のことを知ってもらいたくて、
 授業に参加していたように思います。つまり、英語がツールになっていたということ。
 英語のテストで点が取りたいとおもっているうちは、英語は話せるようにならないでしょう。
 手段が目的化してしまっている典型だと思います。

3、そしてなにより「人を育てるのは人との出会い」だということ
 今回先生と生徒は、先生と生徒と言う関係より個と個の関係だったような気がしています。
 時々、こんな声をききます。「英会話を学ぶなら欧米諸国の先生がいいでしょ、なんでフィリピンなの?」
 正直、先生がどこ出身かということは大きな問題ではないのではないでしょうか。教育は個と個のつながりのなかから生まれるものです。
 個と個がお互いに信頼し、お互いを尊敬した先に教えあいが成立すると思うのです。


長々と失礼しました。
とにかく楽しい一日でした。
教師が世界とつながることの意義を確信し、来る未来にワクワク!した2ヶ月でした。

Jay,Cory,Rizza,Mary,May,Care,Donna and Takako.
Thank you for teaching us & giving power.
I hope that we work together in the future!!
WAKUWORK!!!!!

ICTで全国の学校の教室を自由な組み合わせでつなぐ

梅嶋です。

急きょ、三重に来ました。これから鈴鹿市の教育長さんを表敬します。

昨日、現在の僕の大学での研究の中心となっているSFCプラットフォームデザインラボで自治体や企業の方をお招きして研究会を開催しました。

昨年は、論理コミュニケーションの正式授業を開始しますという宣言をしました。当時は懐疑的な声をでしたが、その予測を裏切ることができ、今回は祝福を頂きました。

テーマは、「ICTを用いて全国の学校の教室を自由な組み合わせでつなぐ」である。僕は鈴鹿市での取り組みを紹介、その他つくば市での取り組みの紹介があった。つくば市の教育委員会毛利先生からは、つくば市では小中学校全市の先生が全市の児童全員を指導していると認識している。それを支えるのがICTである」という意見が寄せられました。

そうだと思います。相互補完をICTが実現するのだ。何を補完するか?。それは、単純に生徒の教育に必要だけれど自分達だけでは創れないものを融通し合えばよい。僕からは、実はかなり教育では自由な設計ができる制度改正の多くが20年以上前から着実に行われていることを報告した。しかし、これら制度改革は活用されていない。さらにこれら制度改革とICTの融合設計が検討されていないことを発表しました。そして、だれが活用に反対しているかも含めてです。

教育のICT化でも、業務改革をせず、現状体制を維持したままでのその場しのぎのICT化がみられる。立場がどうであれ、20代や30代の若手がそこに果実を得られないことをわかっていながら、さまざまな要因を言い訳に改題解決に着手しないのは悲しいことだと思います。

もう、理想論はやめよう。理想を現実社会で実践しないといけない。

 

 

教育のパラドックス

こんにちは、仁藤です。

わたくし、この土日にテストを受けていました。
実は、私は鈴鹿高校の先生でありながら、慶応大学の文学部の生徒でもあるんです。
そこで、生徒が期末テストを受ける中、私自身も期末テストに向けて猛勉強しておりました。
今回受検したのは「教育学」「道徳教育学」などなど教育に関するものばかりです。

今回、それらの科目に対してレポートを書いたり
テストの勉強をする中で、心がふっと軽くなる一言に出会いました。

それは教育の本質的特徴に関して書かれたところです。

実は、わたくし、ずっと悩んでおりました。
私のようなものが教えていいものかと。
まだ、自分自身に、確固たる自信があるわけでもなく
自分の教えていることが、100%正しいと思っているわけでもなく
失敗の方が多いような日々の私が、教えることなんてあるのかと。
(私の特技はよく言うと自問自答。悪く言うとネガティブ..笑)

さて、そんな悩みを抱える中で
どんな言葉に救われたのかというと、ソクラテスの考えをベースとした
著者のこんな内容です。
(blogを更新している今現在、その教科書が手元に無いので漠然とした要約になります。
また後日教科書を手にした際に下記をきちんと引用して修正します。)


ソクラテスいわく、「人は常に善さを求め、善くなろうとする存在」だと。
そして、その善くなる過程で作り出すのが文化であり、学校で教える教科もそれに含まれる。
その文化は常に吟味される対象であり、不断の変革が必要なものだと。
なぜなら、何かを教えること(教育)とはそれを教える人(保護者・教師)自身も何が善い状態なのかを
わからない状態の中、子どもに「善さ」を教えることだから。<有名な教育のパラドックスですね。>
いま、教えている文化が「善い」ものなかのかは、その都度吟味しなければならないと。

そう、ここです。
「何かを教えること(教育)とはそれを教える人(保護者・教師)自身も何が善い状態なのかを
わからない状態の中、子どもに「善さ」を教えることだ。」

ここまで読んで、頭にがーーーーーーんと響きました。
今全国の先生たちが教えている内容は唯一絶対の「善」ではなく、
ある特定の環境で特定の時代に過ごした人が一時的に「善」として残した文化なのだとわかったわけです。

つまり、私たち教師と言うのは固定化された「善さ」を教えることが仕事ではないのですね。
特定の善さを暗記させるだけの授業はもってのほかです。
私たちが生徒に教えなければいけないのは、自身の力で「善さ」を吟味する力なのではないでしょうか。
「善さ」は代わっていくものですから。

つまり、教えている内容に、100%の自信を持つことこそがおかしなことです。
だから、私が悩んでいたことははずれではないのですね。
先生と生徒という関係性の中では、生徒とはどうしても弱い存在です。
だからこそ、自分たちの教えている内容を全面的に肯定し、教師こそ善であるべきという態度は持つべきではないのだと思います。
教師も「善さ」を永遠に探求する学習者の一人です。
その視点で見ると、教師と生徒は同じ立場なのです。


ふぅ。
と、テストを”真剣に”受けたことで、
悩みながら日々の実践を行い、それを理論的に学ぶことで整理するという作業ができ、
とても充実した休日を過ごすことが出来ました。

ちなみに、おなじ教科書の中で「教師の専門性」について言及されている箇所があり、
そこにも感銘を受けたので、次回はその話を書きます。