2013年9月

明日は遠隔教育のシンポジウム

明日は、生徒たちも参加する遠隔教育のシンポジウムです。
といっても私は、別途授業があるので参加できませんが、
生徒がしっかり発言してくれるといいなーと期待しております。

そんな私はようやく、とある高校の3年生の文章を添削(採点)し終わりました。
1枚10分以上かかってしまうため、非常に効率が悪いのですが、
その分愛がこもっております。

また、電気屋をめぐって材料を集めたり、
はたまたマニュアルを作ったり、
はたまたレポートを作成したり、
てんやわんやで、何でも頑張っております。

私は基本的に何でも屋です。
毎日の日々に鍛えられています。ただ、まだまだ勉強が足りなくて
やればやるほど、自分が知らないことを知るばっかりでもどかしいです。

勝てる場所と勝たなければいけない場所

今日、collaboyou組合員である慶大の梅嶋さんと話したことを
blogで共有します。

私達は文章を読んで要約文を書くという練習を
授業内で行います。
それは、筆者が言わんとしている「意見」と「根拠」を
分解して整理し理解することです。
つまり、筆者の主張の構造を分解するということ。

これが出来るようになると、感情的に
「なんとなく全部否定」したり、「なんとなく全部肯定」したり
という行動がなくなるよねーという話をしていました。
論理を分解するので、「あ、ここは一緒だけど、ここが違うや」という
理解の仕方になるためです。

これは、人と話したり本を読むんだりするときだけでなく、
何か課題にぶつかった時も同じです。
課題が生じた原因(根拠)を分解して整理することで
どこを解決しなければいけないかが見えるので、
課題が生じたこと(意見)を見ただけで落ち込むということがなくなります。
落ち込むときは、その対象が見えていない時ですよね。

でも大切なのは、この分解だけでは何も生まれないということ。
分解できたら、解決策をデザインしなければ意味が無いですね。
文章を読んで、理解できた先には、自分の意見を言うターンがこなければ意味が無いということです。

その解決策を考える(自分が動く)ターンというのは、
分解のターンとは異なり、不確実性が高くなります。
失敗の確率が高いということ。
でも、それをわかっていても尚、設計に調整しなければいけません。

100%勝てる場所(不確実性0%)を探して設計しても
成長できないのです。不確実性の中で設計し挑戦する経験を
積めば積むほど、実践力は高まっていきます。

これは、私自身も常に感じていることです。

だから、「勝てる場所より、勝たなければいけない場所」なのではないかと
梅嶋さんが言ってました。私もそう思います。
勝たなければいけない場所というのは、負ける可能性が高いから
全力出して勝たなければいけないということです。

この全力を出すという行為が、案外むずかしいものです。
学校教育が整備された中で育った子どもたちは、
”そこそこ”という感覚が身についてしまっています。
「このくらいやっとけばいいんでしょ?」という感覚です。
答えを早く聞きたいと思ったり、効率のよい学習法を探したりする行為は、まさに全力を出していない証拠だと思うのですが、どうでしょう。

私達が目指す授業は、この「勝たなければいけない場所」に
挑戦できる人を育てることだと思います。
それは、不確実性の中で生き抜く力とも言えます。(かね?)

失敗の次の一歩

blogの更新がまた滞り始めている仁藤です。
ご無沙汰しております。

新しい物事に失敗はつきものです。
現場の先生は常に小さな新しい挑戦をしています。
(しているはず。だって、学び続けるのが先生だから)
そしたら、うまくいくこともいかないこともあります。
やっている内容としては良いけど、生徒とタイミングが合わなかったり。
(教育は折を見て、ですしね。)
あの生徒にはばっちりだったけど、あの生徒には駄目だったり。
そんなことばっかりです。

でも、そんな新しいことの失敗にめげていられないのが大人です。
失敗は、次の一歩が大切なのです。
失敗をしたら、少なからず批判されます。それはそのまま受け止める。
だって、しょうがないもん。挑戦した証、勲章ですからね。そこは改善あるのみ。
改善した姿でしか、批判を改善できませんから。改善こそが真の反省ですから。

でも、その批判により時に次に一歩踏み出す勇気まで持っていかれることが有ります。
若い時はなおさらそうです。
老いも若きも、誰しも、自分に自信がないものですが、
経験を経ている大人は良い時も悪い時もあることを受け止めることができます。
しかし、若い人はそれを受け止める経験がない。悪いことの次にいいことがくるって想像できない。
だから、若い人の挑戦こそ、大人が支えなければいけない。
大人が支えて、どんなに打ちひしがれても、次の一歩を促さなければいけない。
続ければハレの日が来ることを、伝えなければいけない。

なぜなら、失敗して、そこで辞めると、その失敗は本当の失敗になるから。
そして、その失敗が心の傷になり、若い人の自信を奪ってしまうから。
失敗は、勇気を出して踏み出す次の一歩でしか、解消できないのです。
だから、若い人であればあるほど、大人は次の一歩を支える。

それは、時にアイディアを出すことかもしれない。
それは、時に自分がメンバーとして奮闘することかもしれない。

だから、絶対大人がいっちゃいけない言葉がある。
「ほらみろ。だから、言ったんだ」
こういう類の言葉を若い人に行ってしまう大人は、挑戦していない証でしょうな。
自戒します、私も。だめ、絶対。

では、今年30歳の私は、大人でしょうか子どもでしょうか。
そのどちらかは自分ではわかりません。
でも確実なのは、挑戦し続けています、この10数年。
なぜなら、反省も後悔も、落ち込みもしますから!
でも、やっぱり大人です。
確かに、若い時は1つ1つの失敗に勇気を持って行かれそうになり、色んな人に助けてもらっていました。
でも、今は物事には周期があることを知っているからです。
反省の日々がきたらそれに向き合って続ければ、その次にすごく大きな実りがくることを知っています。
これを知っているので、次の一歩に怖がり過ぎ無くなりつつあるんです。

生徒にはこの姿を見てほしいな。
だから、お願い。挑戦し続けて下さい。
そこで諦めちゃ駄目だよ。挑戦し続けないとその後悔がそのまま大きくなっちゃうよ。

そんなことを感じた初秋です。
1年でいっとう爽やかな気候ですねー。
秋風におひさまに癒やされています。
休みをとって紅葉を見に行きたいのですが、それが叶うためには仕事を頑張ります。

さー、次の一歩を!


3年間のカリキュラム策定中

現在、全国6校で論理コミュニケーションの授業を実施しています。
そのほぼ全て(一部異なる学校も有ります)が、高校1年生での実施です。
しかし、来年度からは現在1年生の生徒が2学年となり、授業が発展する高校が出てきます。
そこで、今まで各学校毎に行っていた論コミ2年以降のカリキュラムを再設計し、
全国統一の3カ年カリキュラムを作成中です。

今まで無かったわけではないのですが、1学年のカリキュラムに比べると
流動性の高いものでしたので、全国の先生にお渡し出来るセットなども出来ていませんでした。
そこで、現在作っております。

その中で、新しいチャレンジを画策しています。
通り一遍のカリキュラムにするのではなく、高校の授業のあり方事態も変えようという企画です。

これも、現場の先生とつめながら実現させていたいと思っています。

それにしても最近は涼しくなってきました。
過ごしやすい反面、夏のうだるような暑さでの疲れが一気に出てきましたー。うぅ。

論理コミュニケーション×小論文

今年の1学期なかばに、「論理コミュニケーションと小論文の関係」を
1冊の小冊子にまとめて、関連高校へ配布しました。
一部の高校では、それを使い授業も行っています。

これです。
collaboyou report.png

※論理コミュニケーションの授業を行ってくれている関係者へは
 配布しておりますのでお声がけください。

現在、このvol.2を、現場の先生と執筆しています。
多様性を維持した指導方法についてのレポートです。
毎月恒例の全国の先生との定例会で発表しようと準備しています。

このように現場の先生とコラボレーションして執筆活動を行えることが
大変楽しく刺激的です。

さらに、本日から上対馬高校の授業が開始されました。
うーん、現場に立つといつも反省ばかり。
でも、立ち続けないと成長も変化もありませんから、
教える現場には立ち続けたいと思います。

失敗してもバッターボックスに立ち続ければいつか成功に変わると信じて。

原点となる文章発見

こんにちは、仁藤です。

とある中学校のレポートで論理コミュニケーションが利用されているのを発見しました。
非常に嬉しい限りです。本を出版するということは、このように私達の知らないところで、私達の作ったものを利用してもらえるということでもあり、本当にありがたいです。

また、他にも文章を発見しました。
私は3年生の生徒指導に、ciniiという論文検索サイトをよく利用して、生徒に論文を読ませることが多いのですが、その検索サイトに過去の自分がいることを発見したのです。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000347464

大学関係者の方なら、書いた論文が検索できることくらい当たり前で、珍しいことではないのですが、今回発見した文章は、私が高校時代に書いたものなのです。だから、とっても驚きました。
三田評論に載ったため、検索可能になっているようで、過去の自分を再発見し、刺激を受けました。

私は、常に過去の自分と戦ってます。
昔の自分(特に高校生の時の自分)は、とっても夢が大きかったのです。
なんせ、日本の教育を変えたいと思ってたわけですから。
その時の夢の大きさにまだまだ今の実力と実行していることが追いついていません。
(もちろん、「変える」という言葉は「壊す」ではありませんのであしからず)

本当に、大きな事を思っている子どもだったので、その時思っていたことに追いつかなくちゃといつも思っています。
諦めて夢を小さくするのは簡単なんですが、なんか悔しくてそれが出来ません。
そんなことしたら、生徒に「夢を諦めるな」って言ってあげる事も出来ない気がして…過去の自分と戦ってます。

ここまで12年ほど、その目標に向かって歩んで来ました。
まだまだ高校の時の自分の大志が大きすぎて追いつきません。
もしかしたら、この大志が大きすぎて生きている時には追いつかないのかもしれません。
それでも、それでもいいと思っています。
短期間で成果だそうと焦ってしまうと、知らず知らずのうちに目標を小さくしてしまうので、目標を保ったまま、そこに到達するHOWを楽しみたいと思っています。

今のところ、すごく楽しんでいます。
辛いことも有りますが、基本は楽しいです。
この楽しさを、生徒に伝え続けたいと思っています。

楽しいから続くし、楽しいから苦難を乗り越えられるし、
楽しんでいるから人が集まってくる。
じゃあ、自分にとっては何がこの楽しいことなのか、それを生徒が考え続けてくれたら嬉しいです。

blog更新、100回突破!

約2年前から、滞りながら続けてきたblogが、
これまた滞りながらも100回突破しました。

自分「いやー、よくがんばったね!一番向いてない作業なのに」
自分「いや、本当そう思います。これも皆様のおかげ!ありがとうございます!」

と1人で自分を褒め称えたい気持ちです。

といっても、実はすでに103回めの更新でして、知らないうちに100回の記念すべき更新が過ぎておりました。
残念すぎる!これまた、私らしいんですが…。

最近は徐々にblogの閲覧数(?)も増えていて励みになります。
いま見てくれている、貴方!
そう、あなたです!
本当にいつも、ありがとうございます!
わたし、あなたが見てくれているから続けています!
(いや、本当はどんな人が見てくれているかは知りませんよ)

また、最近は講師育成や、collaboyouの活動自体にお問い合わせを多く頂いています。
こちらも、本当にありがとうございます。
いまは少ない、本当に少ない人数でほそぼそとやっているので
泣く泣くお断りすることもありますが、基本的に興味を持っていただいていること自体が嬉しく幸せです。

collaboyouが発足してからはや11年。
私は発足当時10代でしたが、いまやもう30代に突入!
大事なことなので繰り返します。仁藤、30代に突入!

きづかぬうちに、びっくりするほど時間が流れておりました。いやー気付かなかった。
この11年間で作ってきたこと達成できたことはまだ少ないです。
でも、出会えた仲間は沢山います。

これから、その仲間を大切に、様々な人とcollabo(コラボ)して、私1人では到底出来ないことを沢山実現したいです。
人がいる分だけ、組織が変化するので本当に楽しみです。
今後まだまだ仲間が増えていくのだろうと感じているので、私はこれからはそのような人たちが働きやすくワクワクしながらプラスのコラボレーションができる関係性を創っていけたらと思います。

では、今日からblog更新200回を目指します!!!

9月に突入

9月となり、いよいよ本格的に新学期がはじまりました。
といっても、論理コミュニケーションを実施している学校は8月のお盆明けから
授業が始まっているところが多く、すでに新学期は始まっておりました。
(生徒も、先生も大変ですねー。)

私は、論理的な文章を記述する授業を行っていますが、
その中でいつも「一人称」で書こうと伝えています。
つまり、”じぶん”が大切だよということです。

どんなに理路整然と書けていても、そこに”じぶん”がいなかったら
そもそも文章書く意味ないです。
何かが言いたくて書くのです。言いたいことを見つけるために書くのです。
客観的に聞いた話をつらつら並べても魅力的ではありません。

昨日の授業で、生徒がゲストの方に同じことを指摘されていました。
「じゃ、じぶんはどうするの?上手く書けているけど、それ以上じゃない」と。
むーん、この会話を聞いていて、誰よりも私が悔しかったです。
あー、もっと一人称の大切さ、じぶんを表すことの大切さを伝えなくちゃ
カリキュラムとして育成しなくちゃと、生徒が出来なかったということは、
私の責任だと思いました。ごめん、生徒よ。

でも、意外と文章のなかでじぶんと向き合うことって難しいんですよね。
その気持もわかるんです。どうしても他人事のように書いちゃう。
それは、授業の中ではテーマを勝手に選ばれて書かされているという
理由があるのだとは思いますが、でも本当に力がついたら
どんなテーマであれ、自分の身の回りに置き換えて検討できるようになるのです。
でも、そのためには何度も何度も”考える”ことが必要です。

ただ、授業の中でやらされるままに書いても意味が無いんだな−。
そこでいかに論理に向き合って検討できたかどうかなんではないかなー。
そうすれば、多少の論理の飛躍も気にならないほど、中身が良くなると思います。

でも、生徒がそう出来るように成るには、もっともっとカリキュラム設計が必要ですし、
個別対応が必要です。
そうです、個別対応です。
文章は誰かに伝えたくて書くものだから、まずはそれを先生が受け止めて
返事をしてあげないと、書く気力が無くなります。
だからこそ文章の授業は個別対応が基本なのです。
でも、だからこそめんどくさく、嫌がられるカリキュラムでも有りますが。

私は、そんな全国の先生を助けるための仕組みを作らなくてはいけません。
なかなか、なかなかどっこい、なかなか苦戦しております。
まず、私が成長しないといけないですな。