利益に関係なく共に棲むこと

新年明けましておめでとうございます。

個人的には、昨年はここ10年取り組んできた活動が
実った年でした。
教科書を作ったり、授業を立ち上げたり、公立中高での遠隔授業を
スタートさせることができたりと、様々なことを形に出来た一年でした。
これまでの全ての出会いと運命に感謝しています。

さて、今年は何をしましょうか。
いま、私の頭の中は空っぽです。
次の10年で為すべきことをこれからはゆっくり考えたいと思っています。

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今回のblogの表題は、昨年、2学期の私の授業で読解した
「共生の意味論」、藤田紘一郎著、1997年、講談社の中の引用です。
この本のなかでは「共生」という言葉の定義を
表題に書いた「利益に関係なく共に棲むこと」としていました。

著者はバイキンを例に出して、この共生の大切さを説いています。
人間は最近なしでは生きられないそうです。
でもその最近との関係は、人間に利益を与えるものもあれば、不利益を与えるものもあるそう。
しかし、その関係が利益なのか不利益なのかは時と場合によって変化していくので、
利益不利益に関係なく、まずは共存することが大事なのだと主張しています。

筆者は共存できなかった例を大腸菌で捉えています。
最近は清潔ブームが過度にいきすぎていて、人間と共生するために
長い時間をかけて変化してきた最近なども殺してしまっています。
例えば、大腸菌。抗生物質を安易に服用したり、過度に消毒した食品を食べたり
様々なことによって私たちは大腸菌を殺しています。
筆者によると、一度死滅した菌はモット強くなろうと思い進化を遂げるそうです。
本来最近は、寄生主である人間を殺してしまうと、自分の棲み家がなくなってしまうので
人を殺さずに共に棲む道を選ぶそうなのですが、世の中に新しく生まれた菌(いわば新参者)は
その加減をしらないために、人を殺してしまうのだそう。
つまり・・・、大腸菌が変形したO-157はこれに当てはまりますね。

私たちは自然と長い時間をかけて共生しています。
しかしここ数年の生活は、共生しているとは言い難いものです。
これは、人と人の関係にも言えることではないでしょうか。

私たちは、自分の”気に入らない”対象をどうしても排除してしまいます。
ちょっとムカツク人の文句をみんなで言い合って楽しんだりする。
それがエスカレートしてしまうのが、差別やいじめですよね。
国単位でもそうですし、個人的な日々の生活でも同じことの繰り返しです。

青臭い話ですが、私は、完璧には無理でも
異なる他者と共存できる人間になりたいと、日々考えています。
だから、私は自分のことをいじめる相手であっても、復讐なんかしない。
あの人なんか嫌だなーと心の中で思っても、
周りの人を巻き込んで文句は言わない。
だれかの陰口をいう暇があったら、自分が為すべきことを淡々と行うほうがよっぽど良い。

異なる他者との摩擦は、時にイノベーションを生みます。
異なる他社が集まるからこそ組織は面白い。
馴れ合うのではなく刺激し合えば人はもっと伸びる。

だから、まずは自分への利益なんて考えずに
ただひたすら「共に棲む」状態が必要なのだと考えます。
利益を考え始めたら、排除したくなってしまうけど、
でも今不利益なことも、時間が経てば利益になる。
そう考えると今の一瞬で不利益を決めて何かを排除することはもったいないと思うのです。

まーそんなことを思っています。
そして生徒にも、異なる他者こそ大切にしてほしいなーと思います。
それが、一番エキサイティングなことだから。

学校現場を見ていつも思うのは、生徒が出すぎず埋もれすぎずの絶妙なバランスで
団体生活を乗り切っているという現実。
彼女たちの中にはもっとたくさんのパッションがあるはず。
異なる他者が排斥されてしまう学校の雰囲気では、個は自分を出すことができません。
なんて、もったいないんだろう。
10代の感性をもっともっと私たち教師にぶつけて
私たちを困らせて欲しいのに。
教師は生徒から刺激を受けたらもっと伸びる。
生徒も伸びる。

学校をそういう環境にしてみたい。
でも、そのためにはまだまだ先は長いなー…、私はどこまで出来るだろう。

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